お茶の歴史
お茶を「一服」という理由は?
中国では古くから、お茶は薬、解毒剤として用いられていました。今から1200年ほど前に日本に伝えられた際も、お茶は飲み物ではなく薬として輸入されていました。「お茶を一服」という言葉は、これに由来すると言われています。お茶の歴史を辿ると、今から約5000年前、紀元前2800年ころの中国で活躍した「神農」という名が出てきます。今日の農業と漢方薬の基礎を築いたとされる神農は、自らの身体を使って身近な草木の薬効を調べていたため、1日に72もの毒に当たり、そのたびにお茶の葉を噛んで解毒したと伝えられています。
唐の時代の760年、陸羽によって著された世界最古のお茶の専門書『茶経』には、「茶の飲たるは神農氏に発す」(お茶を飲み始めたのは神農氏からである)という記述があり、お茶は神農によって発見されたと考えるのが定説となりました。また、『茶経』にはお茶の歴史や製造方法、産地、茶道具、飲み方などが詳しく記され、このころ既に中国でお茶は広まり、定着していたことがうかがわれます。
日本のお茶の始まりは、今から約1200年前の平安時代の初め。遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。歴史書『日本後紀』には、「弘仁6年(815年)4月22日、僧・永忠が嵯峨天皇に茶を煎じて奉った」と記され、これが日本でお茶を飲んだ最初の記述といわれています。
永忠は唐に約30年も滞在していました。同時代に活躍した最澄や空海も唐への留学経験があります。最澄宛てに弟子が書いた手紙には「お茶を10袋もいただき、ありがとうございます」と書かれ、また、空海は、「お茶を飲みながら中国の書物を見ることにしている」などの文章を残しています。当初、お茶は大変な貴重品で、僧侶や貴族階級などの限られた人しか口にすることはできませんでした。
普及したのは、鎌倉時代に入ってから。臨済宗の開祖・栄西が宋に二度渡り、帰国の際にお茶を持ち帰ったのがきっかけです。栄西はその種子を各地に蒔いて日本にお茶を広め、さらにその後、お茶が健康によいという内容の『喫茶養生記』を著しました。当時のお茶は抹茶に近く、茶せんで泡立てて飲んでいたようです。
江戸時代に煎茶が出回ると、庶民の口にも入るようになりました。煎茶の祖と呼ばれる永谷宗円が1738年に生み出した『永谷式煎茶』は、それまでの中国式製法のお茶にはなかった鮮やかな色と甘味、香りで江戸市民を驚嘆させたといいます。この製法は別名「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。
1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、翌1859年、横浜、長崎、函館の開港を機に、日本茶181トンを輸出します。明治維新後も輸出量は増加し、日本茶は1887年まで輸出額の15~20%を占める花形でした。輸出用の茶箱には木版多色刷りの華やかなラベルが貼られ、このラベルは中国の茶商の業界用語で『蘭字』(「西洋の文字」の意)と呼ばれました。蘭字の制作には浮世絵師や彫師、摺師らが携わり、そのデザインの斬新さと緻密な彫りの技術は外国人の注目を集めました。
そして現在、和食人気と健康志向の高まりにより、日本茶が世界的なブームとなっています。輸出量はこの10年間で約3倍に増加し、令和元年には過去最高5,108トンもの日本茶が海を渡っていきました。
蘭字
英語で「特選」「早摘み」「無着色」などの宣伝文句も書かれています。
(所蔵:公益社団法人 日本茶業中央会)
鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』に出てくるお話です。
ある牛飼いが、僧侶がお茶を飲んでいるのをのぞき見して興味を示し、「私にももらえないか」と尋ねました。僧侶は、「茶には3つの徳があり、一つは眠気覚まし、二つには消化を助け、三つに性欲を抑制する効果です」と説明し、牛飼いに勧めます。すると牛飼いは、「そんな薬はごめんだ! 1日中働いているので、夜くらいはぐっすり眠りたい。それに、ただでさえ腹一杯食べられないのに、少しだけ食べたものがすぐに消化されてはたまらない」と言って逃げ出したといいます。
この逸話からも、鎌倉時代にはまだお茶が一般庶民にはなじみがなかったことがうかがわれます。